自著を語る:『民主化と労使関係――インドネシアのムシャワラー労使紛争処理と行動主義の源流』

地域研究叢書41
水野 広祐(著)『民主化と労使関係――インドネシアのムシャワラー労使紛争処理と行動主義の源流』
京都大学学術出版会、2020年
https://edit.cseas.kyoto-u.ac.jp/ja/chiikikenkyusosho-41_mizuno/

 


1. 本書のエッセンスを一言でまとめていただけないでしょうか。

本書はインドネシアの民主化の結果、労働者の権利が確保された上で労使関係の安定化が実現するのかを検討し、またその研究を通じて、インドネシア社会を特徴付けているムシャワラー・ムファカット(『合議・全員一致の原則』)の在り方と『行動主義』の源流を探ろうというものです。まず、労使関係の安定化の実現についてですが、インドネシアの労使関係は、「闘争的均衡」が達成されたときに安定することが分かりました。この「闘争的均衡」の達成を巡っては、労使間の協議、デモ、スト、国際機関や国内のいろいろな機関への働きかけがあります。さらには職場内のいろいろな動きなど、労使双方が様々な方法を用いて要求を貫徹しようとします。その過程で、社会的、あるいは政治的変化をもたらすために行動を起こす「行動主義」が一つの重要な原理になっています。

ただ、その一方、ムシャワラー・ムファカットの伝統的価値も重んじられます。インドネシアでは、「法の支配」は往々にして貫徹できずムシャワラー・ムファカットの伝統が生きることになります。行動主義は植民地期から労働者だけでなく農民、住民などに広く見られるものなのですが、話し合いによる解決、あるいは合意形成の方策として、歴史的にインドネシアの伝統に根差したムシャワラー・ムファカットの方式が編み出されてきたと言えます。実際は相手と自分の力関係により、その実態は変化します。スハルト期のような強権下では、ムシャワラー・ ムファカットの名のもとに反対意見の表明が封じられたのですが、スハルト退陣後の改革期では労働者の闘いの武器になっている面があります。本書は労使関係に焦点をあてたものですが、労働運動だけでなく、インドネシア社会を特徴付けているムシャワラー(合議)と、時に暴力を伴う行動主義という二つの流れの源流を探るものです。

雇用創出に関する制度一括改正(オムニバス)法案に反対するKASBI(インドネシア労働組合ネットワーク会議)の労働組合員メンバー。2020年11月10日著者撮影。


2. 本書執筆のきっかけになった出来事や着想など、お聞かせください。

スハルト期には、外国人研究者による労働問題の調査は許可が下りず、調査ができませんでした。 その後、改革期になって調査ができるようになりました。民主化後、「労働者が自らを組織して、労働者の権利を確保し安定的な労使関係を生み出すことができるのか」「その基盤となる内部労働市場はどうなっているのか」などについて調べていたのですが、その過程では次々とストライキが起こっていることに気づきました。そこで、ストライキの経過や労使紛争処理に焦点を合わせた調査を行ったのです。安定的な労使関係の成立を支える制度には、労働法というフォーマルなものもあれば、労働者組織・経営者組織の在り方などもあります。それらを調べたわけです。


3. 執筆中に新たに学んだこと、著作の公刊に至るまでに苦労したことをお聞かせください。

2005年くらいにはムシャワラー・ムファカットと行動主義という二つの流れについて、おおよそのイメージやロジックが明確になりましたが、そうしたイメージやロジックの歴史的成立過程をもっと知りたいと思いました。さらに現実がどんどん変化してゆき、特に2007年から労使関係裁判所が動き出しました。こうした現実の変化も研究に組み込みたいと思いました。こうしたことから、刊行までには思いのほか時間がかかりました。また、2012年前後には労働運動の発展があり、改革後の制度展開のダイナミズムを理解できるようになり、ますます興味深くなりました。このような歴史的経緯に関する研究を行うことで、これまで私の頭の中、あるいは既存文献でバラバラに存在していた知識があらたな知識と共に統合され、「闘争的均衡」という着想を得ました。

苦労としては、所長に就くなど校務に忙しくなったり、本研究とは別のプロジェクトのリーダーになったりして、本書の主題に緊張して向かうということができない時間が生まれたこと、当初は歴史研究について見当がつかずとまどったことなどがありました。

オムニバス法案に反対し、労働力省前で集会を開催するKPSI(インドネシア労働組合総連合)のメンバー。2020年11月10日著者撮影。


4. 今回、540ページを超える大著ですが、様々な事実やそれについての分析をまとめて、どうやって一つの作品に仕上げるか、そのコツ、ヒントを若手研究者に向けて教えてください。

労使紛争処理には一般的に「法の支配」による処理と、そうではないインフォーマルな処理があります。前者は裁判所の決定や法律の規定に多く依拠する方法です。後者は職場内のインフォーマルな方法です。また、政府介入の度合いが高い方法と、もっぱら労使に任せる方法があります。本書では、まずインドネシアの労使紛争処理のあり方は、この一般論の中でどこに位置づけられるのか、そして改革によりどう変化したのか、という核心的かつ理論的な問題を考えています。さらに、このような変化によって労使関係は安定するのか、労働者の権利は確保されたのかと考えました。また労使紛争処理は、「法の支配」がいいのかインフォーマルな協議がいいのかは一概に言えず、労使紛争処理の質を規定する様々な要因を検討する必要があります。こう考えると、労使紛争処理の質を規定する集団的労働関係法、そして労働者保護法やそれらの執行問題、また労働者組織や使用者組織のあり方、さらにはその戦略などを知る必要があるでしょう。また現実は歴史的産物であることを踏まえると、歴史をひもとく必要も出てきます。またインフォーマルな話し合いの制度といえば、インドネシア社会の大問題、すなわちムシャワラー・ムファカットについて、それが本物なのか言葉だけのものなのか、支配の道具でしかないのか、という問題を考えざるを得ません。

このようにインドネシア社会の、あるいは労使紛争処理問題の核心的な問題を考えるためには、さらに多くの問題を考える必要があります。これらを調べてゆくことで、より包括的な研究へとつなげることができます。そして、こうした包括的な研究を通し、インドネシア史研究ではだれでも知っているイスラーム同盟の役割や、インドネシア共産党委員長セマウンの役割などを統一的な把握の中で知ることができます。また、前述したようにムシャワラー・ムファカットか、「法の支配」かという問題についても実態を知ることができます。

インドネシア研究者は誰しも、インドネシア社会で重要な大きな問題に取り組みたいと思っていますが、そのためには具体的なとっかかりが必要で、私にとっては労使紛争処理や労使関係はその良いきっかけになりました。もちろん、労使紛争処理や労使関係そのものも大事です。インドネシアの経済発展を支え、労働者福祉を向上させ、労働者の権利が守られる制度が発展することを願ってやみません。


5. 執筆中に新しく発見した研究課題や次回作への構想も教えてください。

今回、労働者の行動や労使関係を規定する集団的労働関係法、労働者保護法、労働者組織などについて、かなり丁寧に書くことができました。ただ、労働者福祉の実際、例えば賃金は高かったのか低かったのか、あるいは賃金は長期的に上がってきたのか、植民地期、日本軍政期、さらに外資の導入期に際し、インドネシア労働者はどこまで敬意をもって扱われてきたのか、さらに賃金制度や労働市場の展開については、ほとんど書けませんでした。次回は、これらを植民地期から描くことができればと思います。また歴史的に一次産品輸出型であったインドネシア経済の展開が、これらの問題をどのように規定してきたのかを調べる必要があります。つまり、労働市場と家族や農村社会との関係、労働市場とインフォーマルセクターとの関係などを調べる必要があります。いわば、今回の本で示した行動主義の背景ということになります。

今回の研究を通じ、いろいろな史資料の賦存状況もわかりました。これからは、こうした史資料を用いた調査をしたいと考えています。さらに今回の本では(時間的制約などから)触れることができなかった日本軍政期についても、一貫した歴史的視点から論じることができればと思います。そして、2045年には世界第4位の経済大国になろうというインドネシアの経済発展を支える労働力、そこにおける技能形成や労使関係という問題について検討したいと考えています。