自著を語る:『18-19世紀ビルマ借金証文の研究――東南アジアの一つの近世』

地域研究叢書36
斎藤 照子(著)『18-19世紀ビルマ借金証文の研究――東南アジアの一つの近世』
京都大学学術出版会、2019年
https://edit.cseas.kyoto-u.ac.jp/ja/chiikikenkyusosho/chiikikenkyusosho-36_saito/

 

寺院に併設された経蔵。
地方の寺院の経蔵の櫃からは、仏教経典の写本ばかりでなく、証文を記載した個人の折り畳み写本が多数残されていることが多い。メイッティーラ地方。

 ヴェトナムを例外として、東南アジアには現地語で書かれた前近代の在地文書はないのかも、と長い間思っていた。ビルマで農村調査を始めたころ、村の歴史を辿りたいと思うと、これが予想外の難題だったからだ。昔語りができるお年寄りや書付などがあるのでは、という日本ならではの発想はほぼ空振りに終わった。いやあ、よそから来た人たちが拓いた村だよと言われて、よそとは何処? いつ頃のことですか?と畳みかけると、なんで知りたいの、俺たちも知らないのにと笑われるのだった。

 ところが、18-19世紀のビルマで庶民にまで広く普及した折り畳み写本の中に、様々な取引を記した証文が数多く残されていたことを知った。テッガイッと呼ばれていた取引証文の中で、従来の王朝史の中では、集団としてのみ扱われてきた庶民が具体的な名前を持った個人として登場し、暮らしの浮き沈みと闘い、時には争ったり、その処理に奔走したりしていた。

 この資料に惹きつけられて20年以上の間、蝸牛並みのペースで読み続けてきたが、写本の汚れやかすれ、そして癖字、現代では失われている言い回しなどに加えて、貨幣表記も読み解けず、という苦戦つづきだったが、それもまた謎解きのようで興味が尽きない。昨今の大学はとても忙しく、研究成果として実る見込みはほとんど持てなかったが、退職後にはテッガイッに没頭できると定年後がバラ色に思えるのだった。

 しかし、テッガイッを読むことが重なると、そこから立ち上がってくる18-19世紀のコンバウン王朝下のビルマ社会の風景が、従来の王朝社会像とはいくつもの点で齟齬をきたすのだった。王権は、王国のすべての資源と人々が王に属するという建前をまだ捨てていないのだが、社会のあらゆる階層の人々が、借金の担保として王国の最重要資源であるはずの土地と人間を自由に質入れしている。処分ができないはずの扶持地や寺領地、また王権に直属する職務集団の人々も質草になっている。証文は中央あるいは地方政府に届け出る、あるいは認可を仰ぐ必要もないが、それでは統治権力をあてにせずとも、こうした証文が当事者たちにその契約の履行を促すことができたのは、どうしてなのか。

コンバウン朝ビルマの穀倉地帯の一つチャウセー。
サバンナ地帯にあるが、王朝時代に期限を持つ精緻な灌漑網によって5,6月には一面の水田に稲がそよぐ。

 こうした疑問から、慣習法や訴訟文書にも目を通すようになると、18-19世紀の民事訴訟記録の中にも、驚かされることが多々あった。民事裁判の判決書には、茶を食べた判決、茶を食べなかった判決と2種類ある。裁判が結審すると、必ず発酵茶葉が訴訟当事者に供され、これをどちらかの当事者が食べないと判決は無効になるという慣行があったのだ。当然敗訴した方が不満で茶を食べないのだが、そうすると裁判でもめごとが解決できるのだろうかと不思議に思われるが、それが、できるのである。

 もう一つの不思議は、裁判官の資格は慣習法や勅令で定められているが、訴訟の両当事者が同意するものという1項が入っている。双方が同意すれば、誰でも裁判官であるというのも目からうろこの思いだ。この二つの不思議が相まって、当時の民事訴訟は争いの解決において社会の要請に充分応えていることが次第にわかってきた。

 テッガイッという証文は、自立した個人と個人が結ぶ約束として、一見近代的に見えるのだが、契約として双方に履行を促すことができたのは、慣習の集成でもあるビルマの伝統的な法律書や、それに基づく観念、民事法廷の在り方など「近代性」と呼ぶものとは異なった文化、慣習の中で育まれてきた社会的合意であった。

 このように、本書では、借金証文の分析から18-19世紀のビルマ社会の隅々にまで浸透していた経済変動を明らかにしようという当初の目的を超えて、近世社会論を展開することになった。その中で従来の自分が陥りがちだった視野狭窄、つまり近現代を過去に投影し、その経済発展あるいは社会問題の発生の源を過去に探そうとする傾向からの脱皮を迫られることになった。テッガイッという近世の在地文書が、過去を異文化として見る目、社会の秩序を織りなす集合心性あるいは共同主観という観点を学ぶ地点へと、筆者を推し進めていってくれたように思う。

 副題を「東南アジアの一つの近世」としたのは、ビルマの在地文書を紐解くと、このような近世社会像が描けました。ほかの東南アジア諸地域の近世像は、どのように描けるでしょうかという問いかけである。

折り畳み写本の中に書かれた水田質入れ証文。
見開きページの中に、1816年から数年にわたって作成された水田質入れ証文が複数書かれている。最後の証文が曲線で消されているのは、借金が返済された時、返済証文を作成する代わりに原証文の破棄を行ったもの。ウンドウィン地方。